たこ焼き小僧珍道中Vol.2

「なぜたこ焼き屋だったの?」

飲食店経営のかたわら、講演や、執筆という仕事をさせてもらうようになった今でも、一番多いのがこの質問。いままで語ったことのない、この理由を書いていこうと思う。

日本が高度成長期のピーク、いまでいうバブル景気に突入する1984年、ぼくが10歳の頃だった。ぼくの母方の家は、代々商売人の家系だった。ぼくの曾祖父、ひいじいちゃんは大正時代に、リヤカー一つで下駄を売り歩いて一財を成した商売人だったらしい。

そして祖父は、医者を目指していたのだが、跡継ぎがいないということで、その下駄屋を継ぐかたわら、余ったスペースに店子(たなこ)さんを入れ(今でいうテナントさん)、スーパーマーケットの前身のような商売をしていた。そしてその中にあった散髪屋さんが店を出た後に、僕の母が八坪のクラフトアートなどを取り揃えた、「夢工房」というギフト屋さんを始めたのだった。

「永松君の家、フリフリのエプロンがあってかわいい」

と小学校の同級生の女の子たちに言われるのが、ぼくはどうにも馴染まなかった。

ぼくたち家族は店の上に住んでいたから、店を通らなければ家に入れない構造だったのだが、そんなフリフリのメルヘンチックな店を親が始めたことが、子供ながらに恥ずかしく、僕は学校から帰ると、いつもランドセルを置いてすぐに家を出ていた。

その店の場所は、大分県中津市の新博多町という商店街のど真ん中にあったので、僕の遊び場はもっぱらアーケードの中だった。

「テナントが空いたから」というだけの軽い感じで母の作った「夢工房」というフリフリショップは、子供の僕から見ても、信じられないくらいの大繁盛店で、母とスタッフたちは毎日てんやわんや。おやつがないどころか、晩ご飯も満足に出ないような生活だった。

こうなると、近所の家にお世話になるか、自分で外食の方法を覚えるしかないから、そこら近所を渡り歩きながら、子供ながらになんとか生きていた。ぼくが人見知りをしなくなったのは、この環境のせいだと思う。

しかし、いま思えば映画「三丁目の夕日」のような世界で、アーケードの中も活気に満ちあふれ、大人は楽しそうだった。そんな大人たちを見て、「ぼくも早く大人になりたいな」そう思っていた。